
【伊藤邦雄】ゼロからわかる人的資本経営の全貌
2023.03.29
人的資本経営元年と言われた2022年から急速に日本中で議論されている概念ではあるが、「人的資本経営とは何か」「どのように開示を進めれば良いのか」「何から始めたら良いのか」など経営・人事の悩みは尽きない。
日本企業の価値を向上させる「最後の砦」として注目されている人的資本経営について、人的資本経営の専門家である一橋大学 CFO 教育研究センター長 人的資本経営コンソーシアム会長の伊藤 邦雄氏に話を聞いた。
Profile

伊藤 邦雄 氏
一橋大学CFO教育研究センター長 人的資本経営コンソーシアム会長
1975年一橋大学商学部卒業。80年一橋大学大学院博士課程単位取得退学、一橋大学商学部専任講師、84年助教授、92年教授。その後、一橋大学大学院商学研究科長・商学部長、一橋大学副学長を歴任。経済産業省の「持続的成長への競争力とインセンティブ~企業と投資家の望ましい関係構築~」プロジェクト、「持続的な企業価値の向上と人的資本に関する研究会」では座長を務め、それぞれの報告書が「伊藤レポート」「人材版伊藤レポート」として大きな反響を呼んだ。専門は、会計学、企業価値創造論、ESG・SDGs論、コーポレート・ガバナンス論など。2022年8月25日に設立された「人的資本経営コンソーシアム」会長に就任。
なぜ今、人的資本経営なのか
―――VUCA時代では無形資産の中でも競争力の源泉となる「人的資本」が鍵となる。
日本企業の人材戦略における課題として伊藤氏が指摘するのは、日本企業の伝統ともいえるメンバーシップ型雇用である。
メンバーシップ型雇用の課題は、経営者が「社員は皆ついてきてくれるはず」と楽観視しがちであり、社員の離職に対する危機感が薄いこと。また、「仕事が人を育てる」という価値観が未だに残っていること。こうした考え方は、日本企業が順調に成長し将来が現在の延長線上であった時代に成立していたが、VUCA時代では”仕事が人を育てる”前提での人材戦略や制度では立ち行かなくなっている。
これまで日本企業の経営者の多くは、人材についてはファジー(おおらか)に捉えており、人材を「数」として捉えていた。結果的に6つのブレーキを生み、日本企業の従業員エンゲージメント(熱意ある社員の割合)は世界 139ヶ国中 132 位という衝撃の結果が出ている。
「メンバーシップ型雇用は社員のエンゲージメントを下げる理由としては、メンバーシップ型雇用が、社員のキャリア選択を含む自律性(自立性)や自発的学習意欲にブレーキをかけ、長期雇用は人材の流動性を失わる。賃金上昇も期待できなくなり、事業の新陳代謝や企業文化再構築もできなくなる。(伊藤氏)」
働く人の「価値観」の変化と新たな組織文化・風土の醸成
―――若い世代がフラストレーションを感じる「従来の記憶による幸せ」とは?
もっとも、以前の日本ではそうしたメンバーシップ型雇用こそが是とされていた。なぜなら、当時の人々は「1 つの会社に終身雇用で勤め上げること」を幸せと感じていたから。終身雇用で勤め上げることを前提とするなら、人材の流動性もキャリア選択への意欲も、企業文化の再構築も期待する必要はない。
しかし、Z 世代をはじめとする若い世代は違う価値観を持っている。自己成長への意欲や強い承認欲求を持ち、「石の上にも○年」ではなく、現在の仕事を通して「役立っている」という充実感や達成感を得ることを幸せだと感じる。そうした価値観とメンバーシップ型雇用の特性は相反するものといえる。 言うまでもなく、これからは若い世代が主役となる時代。その中では、企業も従来の価値観から脱却し、新たな組織文化を醸成しなければ企業価値は向上しない。そのために重要なのが、「ポジティブな関係値」や「体験による幸せ」を作り上げることだと伊藤氏は言う。
人的資本は能動的に価値を高められる唯一の無形資産
―――適切な環境を整備・提供することで価値の創造・増殖が起こる「人的資本」の可能性
人的資本は管理の対象となる “ 人的資源 ” とは異なり、企業が持つ無形資産の中でもユニークな位置づけにある。それは、適切な環境を整備・提供することで価値が伸び縮みする点である。
価値が伸び縮みするとはどういうことなのか。たとえば、無形資産の 1 つである知的財産は「誰がどう使うか」で価値が変わるが、人は「自ら能動的に価値を変えられる」存在である。自発的に自らの意思で自らの価値を高めようとする存在――それができる唯一の無形資産こそが人的資本である。
【現状】投資家と企業の視点にはまだ大きな乖離がある
―――投資家の 25%は「人的資本経営を重視する」と明言しているのに対し、人的資本経営を重視する企業は 4%に留まっている
乖離が生まれる理由は、企業の多くが「投資家が重視すること」の本質を見誤っているからに他ならない。投資家は企業に対して「経営戦略・ビジネスモデルを実行する力はどれくらいあるか」という視点を向ける。これは、見方を変えれば「経営戦略とマッチする人材戦略」や「人材のリスキリングなどの育成戦略」「社員の多様性の確保」「人的資本の潜在力を高めるような企業文化の醸成」など、人的資本に関するあらゆる戦略を問うている。 なかでも、投資家が欲しているのは「独自性」にかかわる情報の開示である。自社のビジネスモデル・戦略に照らして独自性のある取り組みなどは投資家からの開示ニーズが高いといえる。
―――成長する米国企業はかねてから無形資産に注目。既に米国では企業価値を決める重要指標に。
「米国では、1993年の段階で無形資産投資率が有形資産投資率を抜き、上昇を続けています。その結果、米国ではGoogleをはじめとする企業が生まれました。一方で、日本はバブルが弾けて以来、無形資産投資を進めてきませんでした。(伊藤氏)」
長らく人的資本が重視されていなかった日本企業だが、2021年にコーポレートガバナンス・コードが改定され、人的資本への投資と開示が定められたことをきっかけに急速に状況が動き始めている。
―――投資家や市場が「人的資本経営」に注目する理由
具体的に人的資本経営を行うと、企業にどのようなメリットがあるのか。伊藤氏は以下7つのメリットを挙げた。人的資本が「キャッシュフローの上昇」「エンゲージメント向上」「自発的価値向上意欲の促進」「挑戦する企業風土の醸成」など、「企業価値の向上」に影響を生むからこそ、投資家や市場は人的資本経営に注目し、企業を評価している。
【解説】日本企業が取り組むべき人事変革のポイント
―――人的資本経営の鍵を握るのは、経営戦略と人材戦略の連動である
ここまで「日本企業に人的資本経営が必要な理由」や「能動的に価値を高める唯一の無形資産である『人的資本』の本質」について触れてきた。このような点を踏まえ、今後日本企業はどのようなアクションをとるべきなのか、伊藤氏は以下の8項目を挙げた。
「人事部マターから経営マターへと視点を変える」「人的資本の情報開示を全社的課題としてタスクフォースを組む」「社員のスキルの可視化やリスキルの機会の提供」「褒める企業風土・文化の醸成」「CFO と CHROの対話の促進」などである。
なかでも、特に人的資本経営の鍵を握る「経営戦略と人材戦略の連動」を頑固なものにするため、人事部門の変革を進めることが重要である。人事部門の変革とは、「ルール作りや秩序を重視する管理志向の人事から脱却すること」「調整型人事と決別すること」「誰のための人事なのかを自問すること」「狭い人事に閉じるのではなく戦略部門である自覚を持つこと」「社員が悩んだとき自然と足が向くような部署になること」「出戻りや副業への警戒など無意識のバイアスから脱却すること」「中長期の時間軸に立ち傾聴力を磨くこと」「HR テックを使いこなしデータによるフェアな人事を行うこと」を挙げた。
【保存版】経営戦略と人材戦略の連動「3P・5Fモデル」
▼3つの視点(Perspectives)
視点1:経営戦略と人材戦略の連動
視点2:「As- is To be」ギャップの定量把握
・目指すべきビジネスモデルや経営戦略と現時点での人材や人材戦略との間のギャップを把握できているか
視点3:企業文化への定着
・人材戦略が実行されるプロセスの中で、組織や個人の行動変容を促すような企業文化が定着しているか
▼5つの共通要素(Common Factors)
要素1:動的な人材ポートフォリオ
・目指すべきビジネスモデルや経営戦略の実現に向けて、それに最適な多様な人材が活躍する人材ポートフォリオを柔軟に構築できているか
要素2:知・経験のD&I(ダイバーシティ&インクルージョン)
・個々人の多様性が、対話やイノベーション、事業のアウトカムにつながる環境にあるのか
要素3:リスキル・学び直し(デジタル、創造性等)
・目指すべき将来のビジネスモデルや経営戦略と現在の人材のスキルや専門性との間のスキルギャップを埋めているか
要素4:従業員エンゲージメント
・多様な個人が仕事に主体的、意欲的に取り組めているか
要素5:時間や場所に捉われない働き方
・時間や場所にとらわれない働き方を会社が提供しているか
―――2022年から急速に日本中で議論されている概念「人的資本経営」
開示義務化を皮切りに本格始動する日本企業の後押しとなるべく、次記事では、人的資本経営の実践企業に迫る。
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