グローバル2万人のタレントマネジメントは、どのように実現可能か?三井化学に学ぶ人的資本経営

化学業界のリーディングカンパニーである三井化学。グローバルに約2万人の従業員を擁し、M&Aも積極的に展開する同社が、長期経営計画「VISION 2030」達成の鍵として注力するのが人的資本経営だ。特に、グループ全体の優秀な人材を可視化し、戦略的に育成・配置する「キータレントマネジメント」は、その中核をなす。

国籍も文化も多様な2万人の人材をいかにして把握し、育成しているのか。同社のグローバル人事部門を率いてきた小野真吾氏(2025年4月よりオーラルケア事業部長)に伺った。

Profile

小野真吾 氏

三井化学株式会社 ライフ&ヘルスケアソリューション事業本部 オーラルケア事業部長

慶應義塾大学法学部卒業。2000年に三井化学へ新卒入社し、ICT関連事業の海外営業、マーケティング、プロダクトマネジャー(戦略策定・事業管理・投融資など)を経験後、人事に異動。組合対応や制度改定、採用責任者、国内外M&A人事責任者、HRビジネスパートナーを経験後、グローバルでのタレントマネジメントや後継者計画の仕組み導入、グローバル人事システム展開などを推進。2021年4月よりグローバル人材部 部長。2025年4月から現職。

 

急速なグローバル化・多様化がもたらした人材課題

——三井化学では2021年に長期経営計画「VISION 2030」を策定し、社会課題解決への貢献を軸に事業ポートフォリオの変革に取り組んでいます。このビジョンの実現を目指すにあたり、どのような人材戦略を描いてきたのでしょうか?

当社は2016年頃からタレントマネジメントの議論を本格化させています。当時は、従来の素材提供型のビジネスから、マーケットインの発想でよりお客様の課題解決に踏み込む顧客起点型のビジネスモデルへの転換を目指し、M&Aを積極的に行っていました。

その結果、多様なバックグラウンドを持つ人材がグループ内で急増しました。たとえば、オーラルケア事業や自動車関連のデザイン・プロトタイピングを手がける会社などがグループに加わり、従業員数もグローバルで一気に数千人単位で増加したのです。

そうなると、従来の三井化学を中心とした人事の仕組みではグループ全体の人材を把握しきれなくなります。戦略を実行しようにも、どこにどんな能力を持った人材がいるのかわからず、文字通り、「グループ会社の人材や組織がまったく見えない状態」でした。

特に新しい事業をリードできる経営層や、それを支える多様なタレントをどう計画的に育成・確保していくのかが大きな課題だったのです。

経営戦略と連動し、2万人から人材を発掘・育成する仕組み

——その課題認識から生まれたのが、経営人材を育成する「キータレントマネジメント」ですね。具体的にどのような仕組みなのでしょうか。

「キータレントマネジメント」の目的はグループ全体から将来の経営を担うリーダー候補を発掘・育成していくことです。

対象となるのは2つの階層で、1つは「経営者候補」。将来のCxO候補や事業本部長クラスです。もう1つは、その1つ下のレイヤーとなる「キータレント」。当社の組織では部長や主要グループ会社の社長クラスを想定しています。

「キータレントマネジメント」は、個人の「タレント軸」を見るだけでなく、組織で必要な「ポジション軸」とも連動させています。「戦略100ポジション」として、CxOクラスからグループ会社の重要ポジションまで、約100のポストを定義し、それぞれのポジションについて毎年サクセッションプラン(後継者計画)を見直しているのです。

そして、「戦略100ポジション」に対して、キータレントマネジメントを通じて発掘・育成された人材が、後継者候補として挙がってくる。この両輪を回すことで、経営戦略の実行に必要な人材を確実にプールし、適材適所に配置していくことを目指しています。

——候補者の選定や評価はどのように行っているのでしょうか? 

まず「タレント軸」については、日常業務でのパフォーマンス評価やコンピテンシー評価の結果を基礎データとしつつ、人材育成委員会では「どんな場面ですばらしい成果があったか」といった定性的な情報も重視します。加えて、360度評価など各種アセスメントの結果も客観的な指標として参考にしています。

ただ、どんな基準をつくっても完璧はありません。「人が人を見る」ことの難しさは常にあります。ですから、初期段階では特に基準の厳格さよりも、関係者がオープンに議論し、候補者に対する見方や期待をすり合わせ、納得性を高めるプロセスを大事にしてきました。

——では、具体的にはどのようなプロセスで人材を発掘、育成をしているのですか?

運用の中核となるのが、タレントレビューをする全社人材育成委員会です。その前段階として各部門別委員会が行われます。部門別委員会がいわば「地区予選」、全社委員会が「全国大会」のようなイメージですね。いずれも年1回開催します。

まず、各事業本部等の人材育成委員会で、担当役員や本部長がオーナーとなり、部長クラスが集まって、自分たちの組織や傘下のグループ会社の中から将来の経営者候補やキータレントになりうる人材を発掘。「どんな経験を積ませるべきか」「次はどの部署にローテーションさせるのが良いか」など、一人ひとりの育成計画について議論します。

次に、部門別委員会で選ばれたキータレントの中から、将来CxOや本部長クラスのポテンシャルがあると判断された人材が、CEOがオーナーを務める全社人材育成委員会に推薦されます。全社委員会では、役員・本部長クラスが全員集まり、推薦された人材についてさらに議論を深め、最終的な個別育成計画を決定します。

この委員会の決定に基づいて、人材の配置、リーダーシップ開発プログラムへの派遣、外部コーチングの付与といった育成プログラムを実行していきます。

経営層を巻き込み、議論を通じて納得感を醸成する

――これだけ大規模な「タレントマネジメントシステム」をつくりあげるには経営層の強いコミットメントが不可欠だと思います。三井化学では、なぜ実現できたのでしょうか?

まず、「VISION 2030」のような成長戦略を進めるうえで、「人が鍵」という認識が経営層に強く共有されている点が挙げられます。どんな戦略を描いても、それを実行できる人材がいなければ絵に描いた餅になってしまう。特に将来の経営者やリーダーを育成することは、経営チーム自身の重要なミッションの1つとして捉えられています。

これは当社の特徴かもしれませんが、現社長や前社長をはじめ、人事部門での経験を持つ経営層が多いことも影響しているかもしれません「人を軸に事業や企業をどう成長させるか」ということに対する当事者意識や思いが強いため、キータレントマネジメントを導入するときも理解を得やすかった側面はあると思います。

さらに、2023年からは新たにCHROの役職を新設しました。CHROは経営会議や戦略会議などに参加し、すべての経営情報にアクセスできます。これにより、経営と人事の距離は非常に近くなり、事業戦略と連動した人事施策をタイムリーに打てる体制になっています。

――人事部門の役割も、従来とは変わってきているのでしょうか?

そうですね。私が15年ほど前に人事に来た当初は、やはりどこか経営や事業部門とは距離があり、制度の運用が中心でした。

しかし、今は事業部門が新しいプロジェクトを始めようとすれば、その構想段階から情報が共有され、人事として「どんな人材が必要か」「どうサポートできるか」を一緒に考えます。M&Aの際も初期段階から人事が入って組織再編やカルチャー統合の準備を進める。まさに「戦略人事」としての役割が求められるようになってきました。

――とはいえ、この仕組みを定着させるまでには困難もあったと思います。導入にあたってボトルネックになった点はなんですか?

もっとも大変だったのは、いかに関係者を巻き込んでいくか、ですね。概念としては理解できても、実際に運用するにあたっては多忙な役員や部長クラスに時間をつくってもらう必要があります。

中には、「本当にやる意味があるのか?」「自分の部門のことは自分が一番わかっている」といった反応がなかったわけではありません。特に、長年同じ部門で育ってきた方がトップを務める組織と、M&Aなどで多様な人材が入り混じる組織とでは、こうした仕組みに対する温度差も正直ありました。

また、「ポテンシャル」や「パフォーマンス」といった評価基準についても、人によって捉え方が異なります。「すごく頑張っているから」と応援したい気持ちはわかりますが、「頑張っている」ことと「ポテンシャルがある」ことは本来は別な話です。あるいは、「同期が昇進したから彼も」といった見方も、育成のとはまったく関係ない文脈ですよね。

こうした評価軸のブレを部門を超えてどう標準化し、共通言語をつくっていくかが大変でしたね。

――そうした壁をどのように乗り越えてこられたのでしょうか?

まずは地道な対話です。「キータレントマネジメント」導入当初は、ほぼすべての役員や部長と1対1で話をし、仕組みの意図を説明し、意見交換を重ねました。そして、各部門の人材育成委員会に私自身も入ってファシリテーションをしながら議論の質を高め、目線合わせをサポートしました。

重要なのは、「一律の基準で厳格に縛る」ことよりも「議論を通じて納得感を醸成する」ことだと思います。そして、仕組みをつくってって終わりではなく、毎年運用する中で出てくる課題や意見を真摯に受け止め、少しずつでもプロセスを改善し続けることです。こうした考えから取締役会にも定期的に報告し、社外取締役からも意見をいただきながら、PDCAサイクルを回してきました。

こうした継続的な努力によって、少しずつ文化として根付いてきたと感じています。

——導入後、どのような成果や変化が出ていますか?

いくつか目に見える形で変化が出てきています。1つは、リーダー層の多様化です。ここ数年で、外国籍人材や女性、キャリア採用で入社した人材が執行役員クラスや重要なポジションに登用されるケースが増えています。

たとえば、当社が買収した米国子会社の欧州拠点でキャリアをスタートし、米国本社社長を務めていた外国籍の人物がキータレントマネジメントの議論の中で評価され、メキシコやブラジルを含む米州総代表を担うようになりました。今年度から常務執行役員に昇進し、現在は米州総代表に加えて、戦略事業の1つであるヘルスケア事業本部の副本部長も兼務しています。

このケースに限らず、グローバルでの人材異動が前と比較すると活発になりました。ヨーロッパ拠点のゼネラルマネージャークラスの人がアメリカに異動して経験を積む、といった動きも出てきています。

こうした事例が増えることで、特に海外の従業員の間で、「自分たちにも三井化学グループ全体で活躍するチャンスがあるかもしれない」という期待感が生まれてきているのは、ポジティブな変化だと思います。

また、内部育成ではパイプラインが不足する戦略ポジションについては、積極的に外部からリーダー人材を採用しています。現在、CTO、CDO、経理財務担当の執行役員は外部からのキャリア採用者です。

このようにどこにどんな人材がいて、どこが足りないのかを常に把握することで、組織の健康状態をチェックし、的確な打ち手を講じられるようになりました。

「人間に対する洞察力」を持つことが大切

——小野さんご自身はこれからの時代、人事トップにはどのような役割や視座が求められると考えていますか?

大前提として、人事トップは経営戦略や事業戦略、財務状況などを深く理解し、経営全体の視点から物事を考え、コミットすることが不可欠です。当社のようなグローバル企業であれば、多様な国や文化を理解し、違いを尊重しながらも、共通の価値観や仕組みをどうデザインしていくかという視点が欠かせません。

そのうえで、私が大切だと思うのが、「人間に対する深い洞察力」です。社員の働き方や価値観が多様化する中で、一人ひとりに目を向けることはもちろんですが、組織という人の集まりになったときに、人はどうすればコミュニティでいきいきと働けるのか。それを突き詰めていくと、歴史や社会システム、哲学や思想といった、より根源的な問いに行き着きます。つまり、リベラルアーツ的な視点から、人、社会、組織を深く理解しようとする視点が大事だと思います。

人事の仕事は単に人事制度をつくって運用するだけではなく、組織、会社、産業にとって必要な人たちをどうやって集めるかを考え、彼らがコミュニティの中で充実した人生を送れるような環境、仕組みをデザインすることです。

そうした自分なりの哲学や軸を持つことができれば、厳しい状況でも安易な模倣に走らず、組織と人の未来のために最善の判断を下していけるのではないか、と考えています。


特に、これだけ不確実性が高い時代においては過去の成功事例をマネするだけでは通用しません。自分なりの将来像や構想を持ち、CEOやCOOといった経営トップとしっかり伴奏していくことが重要です。そして、人に対する深い造詣をもって経営をサポートし、時には臆せず意見を交わす。そんな存在が理想だと考えています。

※記載されている情報はインタビュー当時のものです。

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